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京都 金閣寺の歴史と建てた人は? 世界遺産になった理由

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京都 金閣寺の歴史と建てた人

京都旅行の見学場所の定番として挙げられるのが、北山にある鹿苑寺金閣です。鹿苑寺金閣は、これまで様々な事件に見舞われた、歴史上でも貴重な寺社の1つです。

金閣寺のこれまでのあゆみを、専門的な側面から見ていきましょう。

京都 金閣寺の歴史と建てた人

そもそも、金閣寺の正式名称は「鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく)」と言います。「閣」という建物は、仏教建築で仏様をお祀りする人々(僧侶)の住むところを指します。

ちなみに、信仰の対象となる仏舎利(仏様の御遺骨)を祀る建物を「堂塔」と言います。つまり、鹿苑寺金閣は僧侶の居住スペースを指すことになります。

目次

京都の金閣寺の歴史

まずは京都の金閣寺にあった、大きな出来事を確認してみましょう。

1397年(応永4年)
創建。最初は室町幕府将軍足利義満の別荘として建設される

1408年(応永15年)
足利義満死去 禅寺に改められ足利義満の法名である鹿苑院天山道義から「鹿苑」寺金閣となる

1950年(昭和25年)
金閣寺学僧によって放火され全焼する

1955年(昭和30年)
金閣寺再建

1987年(昭和62年)
金箔張替え事業

1994年(平成6年)
「古都京都の文化財」構成資産として世界文化遺産として登録

金閣寺は、もともと室町幕府3代将軍足利義満が北山に建てた別荘でした。その姿は今と変わらず、金箔の張り巡らされたこの世のものとは思えない絢爛豪華な姿で、鏡湖池(きょうこち)の上にあったと言われています。

鹿苑寺の庭園、金閣の建物とその向こうに見える借景は、全て極楽浄土の景色を模しているとまで言われ、足利義満はここで和歌(短歌)を読み、猿楽(能楽の原形の一つ)を舞い、管弦楽器に興じたと言われています。

この頃の金閣寺の呼び名は、別荘であったため「北山殿」と呼ばれました。

義光の死後、遺言により金閣の多くの建物は解体され、禅の教えの1つである簡素を目指して金閣と庭園だけが残され、今の形となりました。

その後、応仁の乱、第2次世界大戦でも建物が消失することはありませんでしたが、昭和25年に金閣で修業をしていた学僧が、そのきらびやかな空間に精神異常をきたし、金閣に放火します。

この出来事は大きく報じられ、小説などの二次作品も生まれました。この放火によって金閣は全焼してしまいます。

5年後に金閣寺は再建され、金箔の貼り替えも行われますが、建物が新しいという理由から世界文化遺産の構成資産となるものの、国宝の登録はされず、今日に至っています。

金閣寺を建てた人は誰?

「金閣寺を建てた人は誰か?」

大工さん、という答えは小学生のなぞなぞレベル?(笑)
この場合の正解は、室町幕府3代将軍の足利義満公です。

足利義満公は、金閣寺を始め北山文化を大成させた、今でいう伝統技術保持者のパトロン(スポンサー)として有名です。

特に有名なエピソードとして、現代にも残る伝統芸能、能楽を大成した観阿弥世阿弥父子を寵愛したことが知られています。

能楽は今でこそ地味な伝統芸能として歌舞伎よりもマイナーに扱われがちですが、衣装や小道具に至るまで、金閣寺と同じく絢爛豪華で、たくさんの日本の文化の集合体とまで言われる総合芸術です。

足利義満の生きた時代は、室町時代の中でも特に平和な時代で、能楽を始め500年以上の長い間続く文化の種が芽吹きだした時期でもありました。

能楽の他、禅宗の中から茶の湯が生まれ、茶席が盛んに開かれました。その作法は現代まで続いていますが、ここで注目したいのが、足利義満の行った政治(外交)政策である勘合貿易です。

勘合貿易は、中国明王朝との貿易を言い、割符と割符を合わせることで貿易関係の有無を確認したことから始まった貿易方法ですが、これによってもたらされたのが中国の美しい陶磁器です。

中国で作られた陶磁器のことを、茶の湯の世界では唐物(唐物)と呼んで茶席の際に茶室の床の間に飾る一つの美術品として珍重しました。

義満の行った文化の保護と、貿易による多文化コミュニケーション(文化の受注)が現代の伝統文化にまで影響を及ぼしています。

金閣寺が世界遺産になった理由は?

1994年、金閣寺は世界文化遺産の構成資産として認定されました。しかし、1950年の火事によって重要文化財はすべて焼失してしまった金閣が、なぜ登録されたのでしょう。

答えは世界文化遺産の登録基準の中にありました。

(1)人類の創造的才能を表現する傑作。
(2)ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3)現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4)人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(5)特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。
(6)顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

つまり、最初の金閣寺が室町時代に建てられた事実よりも、現存する金閣寺にどのような評価を付けることができるかが重視されたということです。

まとめ

鹿苑寺金閣は、一層目が平安時代の貴族の住宅の特徴である寝殿造り、二層目は武家の屋敷の作り、三段目は中国の禅宗仏教のお家のような、全然違う構造を三段重ねにした、ここでしか見られない、建物の1つです。

景色の美しさはもちろんですが、その時代背景を知ることがさらなる価値があるからこそ、金閣寺を旅行で見に行く理由であると言えるでしょう。

写真を撮ったりすることは旅行の醍醐味の1つですが、ぜひ撮るだけでなくその背景のことも考えながら庭園を散歩してみて下さいね。

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